ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作にはフィクサーが存在していた?昭和史の黒幕の存在

※この画像はレイチャールズなんで記事内容とは一切関係ありません(笑)

昭和史を裏で操っていたフィクサーの存在

現在は平成ですが平成になる前は昭和だったのは当たり前の話なんですが、

戦後から現在に至るまでの日本を引っ張ってきたといえば日本の総理大臣だったりしますね。

 

こんな事考えた事ありませんか・・

もし総理大臣という表立った存在の裏にもっと大きな力を持ったフィクサーのような人物がいて

政治や社会を動かしてる実力者がいるんじゃないか?って考えた事はありませんか?

 

マンガや映画でよく描かれたりしてますよね、

実はあながちフィクションの話でもなくて実在する話しだったりするんですよね

昭和の歴代総理大臣に裏方で動く人物がいた?

昭和の歴代総理大臣といえば

佐藤栄作、田中角栄、吉田茂とかは今でも歴史に残る有名な総理大臣だったりしますね。

 

調べてみると・・各総理に背後でフィクサーなる裏方で動きまわってた人物が存在しました

その事自体別に不思議な事でもなく「優秀な右腕的な存在」は居たんだろうな~って予想は出来るとは思います。

 

けれど実は昭和の歴代総理大臣のフィクサーというか裏で支えていた人物は一人の人物だったんです

これは一体誰なのか?ですね

この人です▼
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安岡正篤(やすおかまさひろ)という人ですね、全然知らないですよね・・

当たり前です。裏方で動いていた人なので表の世界に出てくる人ではありません

 

では安岡正篤という人はどんな人だったのかを説明していきます

安岡正篤は古代中国に精通する学問を極めていていわゆる「天才」といわれる人だったんです。

 

幼少の頃から天才の輝きを発揮していて”神童”と呼ばれながら育ちました

神童(しんどう)
得意分野に特化させた能力を幼少時代に発揮した優秀な子供を”神童”と言ったりします

安岡正篤は今の東京大学に首席で入学をします
※首席とはトップの点数で入学果たすの意味

 

そして東大を卒業し官僚の道へいくんですが、「官僚になって国を動かそう」とするんですが・・直ぐに見限り自分で塾を開きます

その塾というのが日本の指導者を育成する為の塾だったんです。

佐藤英作と安岡正篤はどういう関係だったのか?

大61代~63代までの総理大臣を務めた佐藤栄作ですが、功績は知っていただきたいのですが

佐藤栄作さんは日本が敗戦後沖縄返還を実現した立役者になります

1969年に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を鑑みて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し1971年沖縄返還協定調印、その後1972年5月15日に日本へ復帰した。

出典:wiki

後に佐藤栄作さんは沖縄返還の功績が認められノーベル平和賞も受賞する事になるんですが

 

ではどうやって戦後敗戦国となった日本の総理大臣としてアメリカと交渉して沖縄返還に至ったのか?というのが謎ですよね・・

その影に安岡正篤の存在があったんですね。

 

実はアメリカとの交渉を有利に進めたのが安岡正篤が佐藤栄作にアドバイスした結果が沖縄返還につながったとされます

当時のアメリカの大統領はジョン・F・ケネディだったんですが

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当時の総理大臣佐藤栄作はジョン・F・ケネディとの会談で10分しか猶予を与えられていませんでした。

戦争で負けていたので戦勝国と敗戦国との関係は歴然でメチャクチャ舐められていたとしか思えない時間設定ですね。

 

その10分という限られた時間内に勝負をかけなければいけなかったのもあるのですが、

安岡正篤はケネディにこの言葉を伝えなさいと言いました

戦いに勝ちては

喪礼を以って之に処る

 

この言葉を送ったそうですが難しすぎて意味が分からないので説明します

戦いに勝ちては分かりますのでいいんですが喪礼を以って之に処るが分からないと思いますので説明します

 

戦勝国は敗戦国を侮るのではなく喪に服して敬意を払って対応するといった言葉は分かりますか?といったジョン・F・ケネディとの会談で佐藤栄作は伝えました

 

これが喪礼を以って之に処るの本来の意味だったんですね、

この言葉を伝えるや否や「ちょっとまって!!なにこの崇高な考え方」と食いつき

当初予定したいた10分の期限はとうに過ぎていて30分..いやいや3時間を超える会話まで発展していました。

 

そうやって大統領との関係を築く事ができ後に沖縄返還を実現させノーベル平和賞まで貰った功績は安岡正篤の功績と言っても過言ではないですね・・

安岡正篤を知らない真実

安岡正篤は力を最大限に発揮する為にはある法則を公言しています。

有名無力

無名有力

この意味は表舞台に立って有名になって注目され、しがらみも生まれ、

やりたいことが出来ない、挙げ句の果てには自分でコントロール出来る次元じゃなくなったりしますね

 

これだと本来の力を発揮しづらくなる

逆に無名だとしがらみなどなく本来の力を発揮しまくる事ができる

という事なんですね、ということは安岡正篤の名前を知らないということは狙い通りって事になりますね

天皇陛下の発表した玉音放送も安岡正篤が関わっていた

では安岡正篤という人物がいつから日本の主要人物と関わっていたのかは気になるとは思いますが

昭和の総理大臣はもちろんの事戦争が終わり天皇陛下が「戦争は終わりました」と告げたラジオ放送内容も陛下は原稿を読んでるのですが

その原稿の作成に安岡正篤が関わってると言われています

玉音放送
1945年8月15日正午、昭和天皇の「大東亜戦争終結に関する詔書」がラジオを通じて流されました

平成という年号は安岡正篤が残した

安岡正篤はフィクサーとして裏方として様々政治家の指導者でありました。

けれど表舞台に立つことはありませんでした、なぜなら裏方であるからこそ最大限の力を発揮できたからです。

裏方ながら政治家のサポートをして大きく日本の面舵をとってきました

 

戦争を経験しました。そして平和になって欲しいという思いがありました

そこで安岡正篤さんはこの思いを伝えました和がり立つ未来であって欲しい。それで平成になったそうです

信じるか信じないかはあなた次第です

 

天野翔一郎
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