坂本龍馬
坂本龍馬は討幕に大きく関わり明治維新に大きく関わり色んな大きな組織目をつけられ
※討幕とは当時の幕府を倒すの意味。簡単に言ってしまえば武士偉い制度をぶっ壊しました
暗殺されたという歴史認識になっていますが実際のところどうなのか?ってところを詳しく紹介していきます
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、
貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
薩長同盟に隠された真実
幕末の歴史を語る上で”ある”話が浮上しています、それは坂本龍馬フリーメイソン説です。
世界中に存在しているといわれているフリーメイソンですが、いつどこで日本がフリーメイソンと関わりを持ったのか?
とゆう話になるのですが、それは江戸時代末期だといわれています
フリーメイソンと言えばロッジの存在ですが、実は日本にもフリーメイソンのロッジが存在します。
世界各地にフリーメイソンのロッジが存在していて、そのロッジ(建物)の中で秘密の会合や儀式が行われています
日本にフリーメイソンのロッジが設立されたのは1866年に横浜にありました
横浜ロッジ
1864年(元治元年)、イギリスは居留民保護のため英国第20(イースト・デヴォンシャー)歩兵連隊(後のランカシャー・フュージリアーズ)を香港から横浜に移動させた。
同隊の軍隊ロッジ「スフィンクス」は、隊員のためのロッジであるが、在日イギリス人のためのロッジとしても機能し、また恒久的な民間ロッジ設立のための手助けをした。1865年1月、スフィンクス・ロッジは横浜在住のフリーメイソンから家を借り、これをロッジとして日本初の集会を行った。スフィンクス・ロッジは1866年(慶応2年)3月に離日したが、改めて民間ロッジとしてイングランド・グランド・ロッジの承認を受け、6月26日、
「横浜ロッジ」が恒久的な民間ロッジとして設けられた
なぜこの時代にロッジが出来たのか?気になりますが実はこの1866年に起こった日本で起こった”ある”歴史的な出来事を紐解いていくと謎に近づく事が出来ます
その”ある”出来事とは・・薩長同盟です
薩長同盟とは薩摩藩と長州藩が討幕の為に結んだ政治的、軍事的な協力的同盟です
薩長同盟をザックリ説明すると幕末に敵対していた西郷隆盛率いる薩摩藩と桂小五郎の長州藩が江戸幕府を倒すために結んだ政治的、軍事的な同盟です。
フリーメイソンと薩長同盟っていったいどんな関わりがあったのか不思議ですね
その薩長同盟を仲介したのはあの坂本龍馬
坂本龍馬は土佐藩を脱藩して信用のかけらもない状態でどうやって同盟の仲介役という大役を果たすことが出来たんでしょうか?これ結構謎ですが
それを可能にできたのが坂本龍馬のウラに黒幕という人物が存在していたからなんです
トーマス・ブレーク・グラバー
討幕の黒幕といえばこの人物トーマス・ブレーク・グラーバーなのですが
一体どんな人物なのか
トーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド)
1859年長崎に来航した武器商人で当時21歳
坂本龍馬を仲介として立て薩長同盟を実現し討幕という革命を陰で操る黒幕である
長崎にあるグラバー園には堂々とフリーメイソンのシンボルマークが刻まれています
スコットランドにあるグラバーの生家
そしてスコットランド、アバディンにあるトーマス・グラバー生家に関が訪れ
明治維新に深く関わったとされるグラバーの家にはどーいった物が存在するのでしょうか・・
グラバーの生家には日本ゆかりの品が多く飾られていて有田焼など多くのものが飾られています
中でも凄いのが暖炉の奥に隠し部屋なるものが存在し
そこには長州ファイブの写真が飾られていました
長州ファイブ
長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれ、幕末に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した、
井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人の長州藩士
その部屋には長州ファイブの写真だけでは無く討幕に関わった幕末の志士達が訪れていて、その幕末の志士たちの写真も多く飾られています
そこで討幕が行われ明治維新後にグラバーの息の掛ったメンバーがお札の造幣局長に任命するのですが
お札に刷り込んでるメッセージというのはフリーメイソンのメッセージというのは分かってると思うのですが
実は日本の旧札にあるメッセージが隠されているのが「坂本龍馬は暗殺されていない」ということなんです
坂本龍馬は暗殺されていなかった
そこで坂本龍馬暗殺について考察していきます
坂本龍馬暗殺事件
近江屋事件と称されることが多い
京都、近江屋で龍馬と中岡慎太郎での密会中に何者かが押し入り襲撃
龍馬は額や体を数か所切られ死亡、中岡慎太郎は後頭部を切られ両手足を切られ3日後に死亡
そもそも龍馬暗殺に関する残された記述(書物)は一緒にいた中岡真太郎が証言したとされていますが
実際あの現場にいた中岡真太郎も後頭部も切られ両手足を切られた状態の瀕死の状態にも関わらず三日間証言し続けたって事になるわけですが
これってオカシイと思いませんか?
今の医学技術ならまだしも当時の医学技術でそんなこと不可能以外でも何者でもありません
というか瀕死の状態でそんなことできるわけ無いのです
そもそも暗殺の予感はあった
討幕という大きな政治革命に関与していた坂本龍馬は実際長州藩のメンバーに暗殺標的にされていたのは事実です
ただ暗殺の動きを事前に知ることはできたんです
そこで当時の伊藤博文が坂本龍馬暗殺の情報を聞き、「これはヤバイ」と思い板垣退助にどうやって坂本龍馬を助けようか?という相談を持ちかけます
そこでグラバーを通して軍資金を調達し薩摩の藩士を京都に送り出し(そこに紛れ込ませ)
実際殺されたのは坂本龍馬の影武者で当の本人(龍馬)は岩倉具視にかくまわれてイギリス(スコットランド)に渡ったとされています
事件の真相が旧紙幣に描かれている
坂本龍馬は日本を新しい時代へ導いた英雄にも関わらずなぜ?紙幣の肖像画にならないのか?って事に尽きますが
そもそも坂本龍馬の肖像画が存在しないからなんです
この記事で見かけるおなじみの肖像画は影武者の肖像画なので坂本龍馬の肖像画が存在しないのです
当時の旧紙幣の肖像画
・100円札は板垣退助
上記の人物は龍馬と討幕に深く関わった人物であることは違いありませんが
なぜか旧紙幣には時代違いの聖徳太子が5千札と1万札として肖像画になってますが
この肖像画は坂本龍馬を指すと関は語ります
そもそも聖徳太子は天駆ける天馬に乗ってやってきたとい言われていて聖徳太子の肖像画の奥に「龍馬」という人物を残したとされます
※天馬には龍と馬の文字が隠されています
天馬とは
上半身は龍の姿をしていて
下半身は馬の姿をしている空想上の動物
ロスリン礼拝堂に岩倉使節団
明治4年、討幕から4年後、そこに”岩倉使節団”として岩倉具視と伊藤博文がロスリン礼拝堂に訪れます。
そこの場所になぜこの視察団が来たのでしょうか?
実はこの場所で亡命させた坂本龍馬と岩倉具視と伊藤博文が会うことが出来できました。
ロスリン礼拝堂での記録ではちゃんと残っていますので調べてみる一見の価値ありですね