聖徳太子と言えば日本に仏教を広め、遣隋使の派遣や冠位十二階、十七条憲法などを制定し、主に政治活動を行っていた人物である。
当時、隋(中国)に格下として扱われていた日本だが、遣隋使の派遣で地位をあげる事に成功した。
また、冠位十二階を制定する事で「血筋で能力を決める」のではなく「能力さえあれば血筋は関係ない」という新しい制度を生み出した。
今回はそんな聖徳太子にまつわるエピソードについて紹介したいと思う。
聖徳太子にまつわるエピソードとは?
Bank of Japan [Public domain], via Wikimedia Commons
聖徳太子の生誕に関するエピソード。
馬小屋の前で産気づいた母親は、そのまま聖徳太子を出産。
イエス・キリストも同じように馬小屋の前で生まれたそうで、歴史的偉人には馬小屋の前で生まれるというエピソードが付き物なのかもしれない。
①同時に10人の話を聞き分けることができた
ある時、聖徳太子が人々の願いを聞く機会があったのだが、10人以上の請願者が同時に話し始めてしまった。
聖徳太子は全員が話した内容を全て聞き取っており、一人ひとりに的確な答えを返したそうだ。
こちらの説については“聖徳太子がどれだけ頭が良かったか”を分かり易くする為「大人数の話を同時に聞ける」→「頭の回転が速く、理解力に優れている」→「頭が良い」というように、後で付け加えられた設定という話もある。
②文系かと思いきや意外と武闘派だった
聖徳太子=文系のイメージだが、若い頃は意外にも武闘派だったようだ。
聖徳太子と仲の良かった蘇我氏と敵対する物部氏との間で、権力争いの戦争が起きたが、その際、聖徳太子は蘇我氏側の援軍として戦争に参加していた。
当時まだ14歳だったが、何故か頭に四天王像という仏像を乗せて戦いに参加していたようである。
四天王像に「戦で勝てるように」と願をかけて、その願いが叶ったので四天王像を祀るお寺を建てた。
これが現在の大阪府天王寺区にある天王寺寺だそうだ。
③あの肖像画は聖徳太子ではない
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons
教科書などでよく見かける有名な聖徳太子の肖像画、実は本人のものではないという。
そもそも肖像画に描かれている冠や服も、大化の改新以降のものだそうで、聖徳太子が生きていた時代には無かったというのだ。
顎髭に至っては、肖像画を描いた人物とは違う者が、後から落書きのように描き足したという始末である。
我々が聖徳太子だと思っている人物は一体何者なのだろうか・・・。
④態度がデカかった
聖徳太子が、中国の皇帝に出した手紙に以下のようなものがある。
「日出ずる処の天子 書を日没するところの天子に致す つつがなきや云々。」
これを現代の言葉に訳すと
「日が昇る国の王(聖徳太子)から日の沈む国の王(中国の皇帝)に手紙を送ってやったぞ。毎日しっかりとやっているか。これからも仲良くやっていこうではないか。」
という内容である。
当時の中国は世界で一番強く大きかった為、法律すら無い格下の日本が中国の皇帝にこのような手紙を送るなど前代未聞であった。
自分よりもはるかに上の人間に、このような態度を取れるというのも大したものである。
聖徳太子の予言
聖徳太子は生前、三つの予言を残している。
以下はその予言の内容である。
平安京
京都を訪れた聖徳太子は以下のような言葉を残している。
「私が死んでから二百年以内に、聖なる一人の皇族が現れて、この場所に都を作るだろう。今までにない壮麗な都となり、戦乱に10回巻き込まれてもそれに耐え、千年もの間、都として栄え続けるだろう。」
まるで京都に平安京ができる事を予言しているようである。
実際に平安京は長い間、都として栄えた。
黒船
「私が死んでから一千年の時が経った時、黒龍が来て都は東へ移される。」
これはペリーの黒船来航を予言しているようだ。
実際に首都も江戸(東京)へと移動している。
まだ見ぬ未来
「それから更に二百年過ぎた頃になれば、クハンダが現れてその都を汚す為、東の都は親と七人の子供のように別れてしまうだろう。」
「クハンダ」とは、仏教用語で悪に満ちた鬼のことを指す。
クハンダの悪の力は凄まじく、近くにいる人の身体や心も悪に染めてしまうという。
これは東京の都市化による緑の減少や排気ガスによる汚染、住む人々の心の悪の部分を指していると言われている。
これらが混沌とし、どうしようも無くなった時、東京が七つの都市に分かれるのだそうだ。
三つある予言のうち、二つの予言は見事に的中している。
最後の予言は、我々が生きている現代の事を指しているようだが、近々東京が七つに分かれる、なんて事が本当に起こるかもしれない。