小学校高学年あたりから一般教養として全国民が教育を受ける社会科の授業。その中には日本という国が出来てから現在に至るまでの長い歴史についての事象を学ぶ日本史学という学問がある。
しかし教科書に沿って決められた時間の中で、何千年何万年の間に起こったことを事細か掘り下げて勉強することは不可能である。よって、学校の授業の中では日本の歴史事象やその登場人物については、あまり深い内容では教わらない。
そんな奥が深く謎に包まれている点も多いミステリアスな歴史の中でも、特に多くの人から疑問を抱かれている俳人「松尾芭蕉」に関する都市伝説をいくつか紹介していこう。
松尾芭蕉「奥の細道」に残された疑問点
奥の細道とは、松尾芭蕉が俳句を詠みながら日本を歩き回った際に作られた歴史的にも有名な紀行文である。江戸から出発し、歩いた総距離はおよそ600里…つまり今で言う2400kmに相当する距離だという記述も残されている。
しかし、江戸時代に日本を歩き回るのはそう簡単なことでない。その一番の大きな理由が関所の存在だ。
江戸時代の関所といえば、日本の歴史の中でも特に通行の緩和が厳しいことでも有名である。関所の中には奉行所や城勤めの関係者ですら文書を提出しなければ通り抜けられない箇所もあったと言われているのだ。
そんな守りの堅い関所に、どうして「俳句を詠み歩く」という個人的な目的の旅をする芭蕉達は通り抜けをすることが出来たのだろう。このことから、もしかしたら芭蕉は普通の俳人ではなく、何かしらの権力を持った人物だったのではないだろうかという説も浮上している。
松尾芭蕉の正体とは…?
上記の小見出しで述べたように、もしも本当に松尾芭蕉が権力を持った人物なのだとすれば、当然その裏には権力を後ろ楯する存在もいる筈である。そう考えた時に思い浮かぶのが、当時の幕府の中心人物となっていた徳川家康だ。
この徳川家康は、歴史的にも有名な偉人であるが、一般的に忍者と呼ばれる隠密の仕事をする者との関わりにも様々な逸話を持つ人物でもある。
ちなみに歴史書などで最も徳川家康との繋がりがあったとされているのが、服部半蔵という忍者であり、一説によるとこの服部半蔵こそが松尾芭蕉の正体であるのではないかと囁かれているのだ。
根拠としては、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出た時の年齢が46歳であった事が有力なものとされている。
当時の46歳と言えば高齢者にあたる年齢であり、また1日に数十キロもの移動をしていたとされることから普通の老人ではないと考えられているわけだ。
極めつけは、松尾芭蕉の出身は忍者の里として知られている「伊賀」という地域である。そして驚くべきことに、服部半蔵もこの伊賀地方の忍者であるのだ。